本質はあいだにある。
https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_ct/17436772
上の対談、読みました。
本質は「あいだ」にある
ということです。
音は消えていくでしょう。
あれは本質の深みへ戻ってるのでしょうか。
よく占い的霊能者が占うまえにチ〜ンと鐘の類を鳴らしますよね。あれは儀式のひとつなんだと思います。そういうの必要無い人もいてますが音を使った方が「あいだ」に接続しやすいんだと思います。
ピュシス(physis:自然)対ロゴス(logos:理性)
シーシュポスの石積みの如く繰り返される営みも、完全にエントロピー増大の法則に打ち勝つことはできません。徐々に酸化物や老廃物が溜まり、捨てきれないエントロピーが増大して最後には崩壊し、また自然の中に還っていきます。
ピュシスを仏教でいうところの輪廻としてとらえていいのでしょうか。だとすると、これまた人間的な霊的人工物のようなイメージが湧きます。そうなるとエントロピーの増大はカルマということになるのでしょうか。
なら、ピュシス(physis:自然)対ロゴス(logos:理性)なんて、言っちゃってますが、これに取っ捕まったら永遠にこのサイクルから逃れられないようにも思います。
外部からの脅威よりもむしろ内部にたまるエントロピーなのだと思います。それをいかに外に捨てるかに、システムの存続がかかっています。
どんな建物でも10年、20年経てば修繕する必要があり、メンテナンスをしないままではいられません。
生命は最初からゆるゆる、やわやわの構造でみずからを恒常的に壊し続けるという選択をしたわけです。
まさか、フェルメールが登場するとは思ってもみませんでした。
だけど、そうかかもね。
フェルメールの光と影の陰影のとらえ方の不思議、現代にある分離感はフェルメール生きた時代にはまだ無かったからそれぞれの要素は互いに夢を見ることができたのかもね。
現代でなかなか共感力が働かないのは実はより深まった分離感なのかもしれない・・・皆、共感といういう思いやりの嘘のなかでしか集うことはない。わかりあえない相手とのコミュニケーション・・・同じことを希求する相互補完的な共感にはなかなか出会えない。日常に埋れてしまっていると人生自体に疲れ果てそこにあるのはただの同情、娯楽的コミュニケーションでしかない。そういうことばかりやってると疲れ果てる。
それはなぜか、ロゴスに本質的なピュシスを感じないからなのかもしれない。
Twitterで「リツイート」ばかりをしているTwitterを見ると、本当に共感しているのだろうかと思ってしまう。情報の広告塔、TVや動画で流される広告を何度も見せられてるような感じでゲンナリしてしまう。
いま、大阪市立美術館(天王寺公園内)でフェルメールと17世紀オランダ絵画展やってます。「フェルメール・ブルー」も堪能できます。
お近くの方は是非にどうぞ。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。