仏陀は沈黙した。

新幹線のなかでなにか読もうと八重洲ブックセンターに寄った。ブックカバーと栞がおそろい、こういうちょっとした心遣いを感じるとうれしい。
仏教は仏陀の教え、
執着をなくし(無常)、涅槃に到達すること、涅槃は、どっかにある地ではなくて、煩悩の火を吹き消した心の状態をいうらしい。
縁起
四諦(苦、集、滅、道)
八正道
上記などを実践して、悟りに至ることみたいで、でも、それは、仏教の教え(世界観)であり真理ではない。という方もいる。
なぜなら、無常ではかない~ものに真理はなく、真理は持続のなかで常に変わることのないものであるからとなると、真理というのは美しくないわ。
仏教は出家が基本、在家は上記の教えを方便のように守り暮らす。ということのみなのかもしれない。
仏教といっても、
小乗仏教(部派仏教)
大乗仏教
密教(異教なので、もはや仏教とはいえない)
この三つは、同じ仏教でも、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のようにちがうらしいから、まったく別ものと考える人もいる。
大乗仏教(北伝仏教)は、よく知られていて「空」を説く。
天台宗
浄土宗(阿弥陀仏を信じて念仏を唱える)
律宗(鑑真)
華厳宗(ホログラム的な教え)
禅宗(答え無し、理論(思考)をなくすための教え)
どれもこれも、苦から解放される教えのようでありながら、念仏もホログラムも仕組みを知っても苦の逃避としかならないかもしれない。
密教にいたっては、手に印を結べば、なにかと感応して即身成仏すると説く。
仏教は、神々への祈願、まじない、祭祀などもろもろを否定、とくに初期仏教は信仰を否定(原始経典)、ゆえに、タントラ的な密教などは仏教ではない。
なぜ、仏陀が神々を否定して認めないのか、それはバラモン教の教えを学べば理解できる。
印度の神々でさえ、執着、欲望をもっている。
バラモン教徒(ヒンズー教)は、勇敢に戦って天国に行くことが願いであり、死ぬことに恐れはないが天国に行ってから再び死ぬことには恐れを抱くらしい(これが輪廻)。
どの経典を読んでも、神々でさえ執着がありいつも戦っている。
仏教は、そういう印度の神々がいるなかで生まれた革新的な教えなので、神々がいない!というよりも、バラモン教の神々を否定して頼らないことにしたのであります。
仏陀は自己、自性(プラクリティ)の存在を否定というのか、答えず沈黙した。
なぜなら、
どこの神かはわかっていても、その神の名のものと戦うのはアホみたい!と、思っていて、
なぜなら、
戦うこと自体、心ににくしみの感情があるからで、仏教の教え自体が「苦」からの脱出というのか逃避というのか、
仏陀(釈迦)の説く「一切」という教えは、五感によって認識されるもののみで、抽象的な認識を説くのは馬鹿げているので議論しない!そいういうことは愚かでしかないのであった。
とにかく、仏陀は観察できないものは判断しても愚かなだけなので、有とか無とか言明せず沈黙するのであった。
たしかに、この世はうつりかわる無常であるほうが美しい。だから、この世は美しいのであった。
真理なんて、自己なんて、自性もだれにでもあるけど、そこから流出してくるものが意地クソ悪い世界だったら どうしようもないではないか。
つづく。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。