zoom参加メモ

マコモ茶です。
zoom、本名のまま参加していた。写真もハズレていたので、profileをまた打ち直さないといけない。
昨日のzoom講義、「自我」のとらえ方が、高度過ぎてぶっ飛んでいたけど、過去に学んだことあったのだと思うけど理解できてなかったね。涙。
自我イコール無我なのか。
仏教で説く無我は虚無的な否定的自我で、西田幾多郎のいう絶対無ではないということです。
わたくしは昔、西田哲学は、知識が主体で対象が客体で「純粋意識」は、知識と対象が合一していてるので、純粋経験をしている自己はなく、西田のいう自己意識は「自意識、自我意識」だと学んだことがある。
絶対無である非局所空間は回転している。
非局所空間の回転は高次元なので視えないが、この世の残像世界では振動(反復運動)として確認される。要は、三次元では波動の波なのだね。
波であり粒でもあるという量子の二重スリット実験は、観測という行為が対象に何がしかの影響を与えているという解釈で、つまりは観察したから現象化したということだと理解してます。
だけど、素粒子は観察されるものではなく、観察させているもの、ってわかるだろうか・・・素粒子とは「人間の意識」がそのまま素粒子であるということなのだそうだ。つまりは意識が素粒子に干渉するんじゃないということですか。
意識の位置の顕在化。
意識の位置が顕在化する絶対無は虚無ではなく、そこはすべてが存在している場で、あり過ぎて無になるという肯定的無我なのですわ。それって不動の自己、無時間であり非局所であり、その不動の自己視点を意識に浮上させるってことが顕在化ということなのですわ。
でも、仏教の「空」も無我ではなく、すべてがあるから色として立ち現れてくるし虚無的じゃないと思うんだけどね。すべてが重ね合わせの状態でもあるけど、固定的な不動の自己はいないかな〜。
禅的視点などは、再帰的な自己観察なのだろうか。自己の位置が定まらないので、無限に自己を観察し続けるってことになってしまうのかな。主観を客観化させていること自体がそうだともいえちゃうのだろうか。常に知覚で、恒常的な自己はいないような気もする。
インド哲学だと恒常的な自己いるけどね。

zoom講義は、四時間もあって、休憩も入ったので、三時のおやつもいただきました。
まあ、とにかく、素粒子とは「人間の意識」がそのまま素粒子であると。素粒子は観察されるものではなく、観察させているもので、対象と考えるから分からなくなるでしょうか。
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ここからは、わたくしが今まで理解しているメモ
仏教は自性までしか説いてないのだ。
物質は自性に包まれているので、同時に意識でもある。と考えれば意識とモノは本来ひとつのもので、不可分なのである。
自性である光が、意識(波)と、物質世界(粒子)を包んでいる。
意識と物質を包んでいる自性の光というのは意識であるので、物質にもなり得る。
自性が意識と物質を包んでいるので、一如である。
だけども、それは自己ではない。
光(自性)を見ているのが自己である。
自己は闇である。
自己というのは、見られることも、聞かれることも、思考されることも、知られることもない。
自己は、見るものであり、聞くものであり、思考するものであり、知るものである。
自己は、歓喜に満ちている。
自己は、見ることも、聞くことも、思考されることも、知られることもないが、自己がなければ、知ることも、聞くことも、考えることも、知ることもできない。
仏教には、この自己が無いから、虚無になるのだと思われます。
西洋の哲学はこの自己を自分とかわたしの問題として捉えて哲学してるので、いつまで経っても堂々巡りの議論から抜け出せない。こちらも自己が無く、意識と物質分けているので、意識(心)のことを「わたし」と位置づけている。ゆえに「我思う、故に我在り」なのだと思われます。
ということは、自己は不動の意識の位置ということにはならないだろうかと思う。
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