説いていないだけ

スコ座りのタケチン、冷房が効いてても暑いね。
昨日は三年ぶりのヘッドスパを受けに午後から心斎橋まで地下鉄に乗る。
前回と同じ150分コース、忍耐の150分仰向けヘッドスパは長過ぎた。

心斎橋大丸の地下二階のPAULにて、紅茶とシュークリーム。
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ゴータマ・ブッダの説いた原始仏教は、とてもシンプルだと思う。
八正道
「正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定」。
正定は、精神を集中することで、瞑想してサマディにより煩悩を離れる。
これに到達する為の行としての「正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念」なのだと思う。
それに、何よりゴータマ・ブッダの教えを実践するには出家なのである。
ゴータマ・ブッダは、出家しているので、夫婦愛などは皆無です。
ブッダは、五蘊(身心(色 受 想 行 識))非我と説いた。
ですが、大乗仏教はブッダの教えを五蘊(身心)無我と説いて、自己であるアートマンは存在しないとしてしまったので、わたしという存在はいないことにしてしまったのです。
ですが、自己であるアートマンは、認識主体なので、対象にはなり得ないだけで、存在はしているのである。
そこを大乗仏教は無いことにした。
ブッダは実存主義的経験者なので、自己であるアートマンのとこは説くことはしなかっただけである。
なぜなら、自己であるアートマンは、対象化できない(みることも、きくことも、ふれることも、できない)ので、説いても理解できないと思ったのではないのか。
非我と無我の違いはそこにある。
非我は、私という存在は、説かなかっただけなのに、
無我は、私という存在は、ないことにした。
だから、ゴータマ・ブッダは、無我とは説いてはいないし、仏教には神はいないとよく言われるが、そこもゴータマ・ブッダは、説いてはいないだけなのです。
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