きのうのつづき。
明日から二泊三日で東へ行く。
日曜日は、友人と皇居でお花見をしたあと、サノの35周年のラストのライブだよ!
きのうのつづき。
デカルトの二元論は、
意識と
物質
サンキーヤ哲学の二元論は、
自己と、
意識(波)、
物質(粒子)
同じ二元論でも、デカルトの二元論はただの知識、思想の哲学だけれど、
サンキーヤ哲学は、知識と思考にプラス、瞑想をして意識が途絶えたところに出てくる 自己 へ超越してくる。
その「自己」も、聖者のとらえかたによって変わってくる。
まえに、二回ほど、周りがスクリーンのような状態になったことがある(と、思う)。
スクリーンの存在を意識できているというのか・・・普段、わたしたちは、スクリーンを忘れていて、動いている映像のみを見て反応している。
なら、スクリーンが 自己?
スクリーンは、時間と空間がないと投影されない。
ということは、自己なしには、そこに世界はない。
見るものである「自己」は、
見られることはなく、
聞かれることもなく、
知られることもない。
なぜなら、見て、聞いて、知るものだから。
「自己」は、不死で歓喜に満ちているらしい。
たいせつなことは、
自己
自性(光)
意識(心)
物質
の相互の関係性をよく理解すること?
自己(見るもの)は常に、
自性から流出して分かれる意識と物質(空即是色、色即是空(見られるもの))の外にいて、
見るものとして理解したほうがいいのかもしれないらしい。
つづく。
日曜日は、友人と皇居でお花見をしたあと、サノの35周年のラストのライブだよ!
きのうのつづき。
デカルトの二元論は、
意識と
物質
サンキーヤ哲学の二元論は、
自己と、
意識(波)、
物質(粒子)
同じ二元論でも、デカルトの二元論はただの知識、思想の哲学だけれど、
サンキーヤ哲学は、知識と思考にプラス、瞑想をして意識が途絶えたところに出てくる 自己 へ超越してくる。
その「自己」も、聖者のとらえかたによって変わってくる。
まえに、二回ほど、周りがスクリーンのような状態になったことがある(と、思う)。
スクリーンの存在を意識できているというのか・・・普段、わたしたちは、スクリーンを忘れていて、動いている映像のみを見て反応している。
なら、スクリーンが 自己?
スクリーンは、時間と空間がないと投影されない。
ということは、自己なしには、そこに世界はない。
見るものである「自己」は、
見られることはなく、
聞かれることもなく、
知られることもない。
なぜなら、見て、聞いて、知るものだから。
「自己」は、不死で歓喜に満ちているらしい。
たいせつなことは、
自己
自性(光)
意識(心)
物質
の相互の関係性をよく理解すること?
自己(見るもの)は常に、
自性から流出して分かれる意識と物質(空即是色、色即是空(見られるもの))の外にいて、
見るものとして理解したほうがいいのかもしれないらしい。
つづく。
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