根っこにあるもの

ネットを見てるとPCの後ろから白いフサフサの前足が伸びる。

タケルちゃん、隙間も好み。

遊ぼう!
人は分離しているもの、自我というものを発達させて分離の仮面をつける。
わたしはいままで自己実現とは天職を見つけて成功するとか、そういうことだとも思っていた。いわゆる自分探し。
だが、いまではただお金を稼ぐためのものであります。
職イコール自己実現。
それは、マズローの所属意識で自己実現でもなんでもない。
健全な自我をもつことは、社会的に機能するということ、つまり自らを欺く力をしっかりと持つということでもあるのか。
でも、そこを通過しないとその先へは行けないのか。
闘争と逃避の反応、人間の原点としてはどちらも同じメカニズム、人間としての原点、そこに共通の基盤があると、その共通の基盤を「悲しみの共同体」と吉福伸逸氏は呼んでいます。
悲しみだけじゃなく、怒り、喜びでもいいし、なんともいえない繋がった部分に目を向けると分離感がなくなるわけではないけれど、人は分離の幻想による圧倒されるような恐怖感からしだいに解放される。
スピ系の人たちは、軽く、手放すというし、あなたはわたしとか、わたししかいないとか、いいますよね。
「あなたはわたし」といわれて、どうですか、「わたししかいない」といわれて、どうですか。
わたしはイラッとして虚しくなり、ノイローゼになりそうです。
だけど、その人がどうあれ、そこに自分と同じ基盤があると見えてくると、こわさがなくなるのだろうか。
六甲の集まりにはよくUFOとか、なんとかの目とか出てくるけど、だまって聞いているけど、根っこにあるのはやはり恐怖なのではないのだろうか。彼らはそういうもので表現している。
問題は、やはり根っこにあるものなのだろうかね。
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