動いてやまぬもの

ああ、今日の作業は疲れた。
まとめ。
サーンキヤ哲学では、神は自己(プルシャ(神我[2]、自己[3]))だと定義していい。自己から自性(プラクリティ(自性[2]、原質[3]))が生じる。自性から心、我執(アハンカーラ(自我意識))〜などなどのもろもろが生じる。
仏教では、自性から生じる以降の流出を「空(マーヤ、滅びゆくもの)」としている。
仏教は、自性までは認めているが、それ以降を認めないので神はいない。解脱をしていないと自性に帰ってもカルマによってまた生じなければならない。
自性から万物であるありとあらゆるものが生じる(ブラフマン)。とするなら、自性が神ということにもなる。インドの哲学、仏教では自性からすべてが生じるのだから、モノになると言ってもいいと思う。
その意味で、神智学ではモナドが魂(真我)いうことになるので、己が神ともいえるのだと思う。
だとしたら、とってもシンプルで、わたしがあなたでもあり、モノでもあり、すべてが己の宇宙になっているといえる。そこにカルマが起動する。だけどもそれに気づかないといつまでも、ある。いる。という思考でしかこの世を見れない。
この世で、個人として存在できていても、それは泡のようなもので、その泡のなかに、meimayのデータは保存され続けていて(前世も)、それがこの世ではmeimayとしての意味を持って顕れたのかもしれない。だとして、この世で肉体を持って解脱したならば、自性から抜けるということになるのだろうか。
ややこしい。
プラトンの説く魂は不死で動いてやまぬもの(自分で自分を動かすもの(プシュケー))だという。
そして、魂はイデア界に帰っていくのである。動いてやまぬものなら、それは自性(プラクリティ)であって、自己(プルシャ)ではないので、プラトンは自性のことを魂と説いているのだとしたらイデア界へは幽体で帰っていくのだと思われます。
自発的に自ずからそれをやっているのなら、魂からやっているというのはよくわかる。それはプシュケーともいえる。
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