Meimay's days

I write about my daily life.

知人の話メモ

meimay

昨日は「十種神宝」のおはなしが登場して大変、興味深く、ああ、わたくしにとって物部氏はロマンだったなあとつくづく思わされました。そのことを思えば、人間であろうが人間の反対であろうが、未熟な発達系であろうが、苦しむ人格系であろうが、どうでもいいし、今更、どうにもなりません。

大体、夢中、好き好き状態のときって、夢中、好き好きということさえ忘れているし、だからいいのです。

 

ところで、昨日、思考と感情のことについてうまく思い出せなかった知人の話について、どうしても思い出せなかったので、このブログに記しているはずだと思いながらそのときのメモを調べてみた。

 

洗脳するには強い感情の訴えかけで煽動するのがいいだろう。そうすることで表面的な一時の感動だけではなく深い部分にまで影響が及ぶ。まだ自我が芽生えていないリミッターが外れたままの子供というのは、アストラル体にまで影響が及ぶ。だから経験や体験が全てだというのも考えものである。
アストラル体で反応して高揚して感動をすることは日常ではよくあること
セッションを受けたり合同合宿に参加したりしていい感動する体験をしたとしても、それはアストラル体の感覚が優位になるだけで、メンタルが鍛えられていない人の覚醒の境地は、覚醒をアストラル体で感じているだけなので、アストラル体で捉えた感覚、感情的なものでしかなくアストラル体が振動していい気持ちになっているだけということ。
きちんと思考力を働かせることが出来る人が、その次のステップとして、思考のない状態に入っていく。思考を司どるメンタル体の領域まで変容しないと、アストラル体領域だけの感動だけだと、その効果は持続することはない。
だから、「思考のない状態になった時に、その境地を言葉で表現できなくなるというのは、違うんですよ。」
 

意識は層になっていて、浅い領域だと、自分の意志で動いているという実感が強いですが、深い領域に入っていくと、まるで自分が動かされているような感覚になっていきます。

自由意志というのは、一見、自由なようで実は役柄を演じさせられているのであって、不自由であると。つまりは人間が本質的に自由か自由でないかということにおいては、二元論的な捉え方の方が、本質的に不自由だということ。そして、非二元論はブラフマンの意志という意味で、その領域に意識が融合した存在にとっては、本質的に自由であると。

経験をして腹の底(丹田)から学ぶことが大切で、自己啓発やスピ系本を何冊読もうと1mmも成長などしないと、余計な知識はヒントにはなるが道具であり集めて満足しても使わなければガラクタだと、つまりは楽しい趣味(娯楽)の世界であると。

それは、アストラル(情緒)のエネルギーを強く受けただけ

それに、社会的評価と能力の発揮とは、全く違う。目に見える能力を発揮している人は意識が高くなるほどに必然的に本質的な能力は芽生えてくるはずで、それがピアノなら音に現れ、スポーツ選手なら動きに現れ、生きることそのものの言葉、動き、表情も独特の輝きが現れてくると。スピ系のいう光っているとは深みがまったく違う独特の所作というのがある。

 

ところで、占星術、エニアグラム、数秘、血液型・・・と、思想体系はいろいろあれど、やはりヨガの哲学はすごいと思うようになった。

タマス(動きがなく怠惰)

ラジャス(激しく動いている)

サットヴァ(中庸)

という分類がある。

 

楽で楽しく生きようといってもタマスが優位の人がそれをやるとよりタマス状態になってしまう。よりタマスの人とは会話するさえ大変なように思う。タマスの人は実はもっと動いて、行動したほうがいいのだろうと思う。

わたくしはどちらかとうとラジャスじゃないだろうか。ラジャスの人はタマスのような状態に持っていくといいのかもしれない。