読んでます。



連写、朝の凛々しいタケルとわたくしの膝。

昨日は水路に黒い鯉はいなかったが、亀がいた。
今週は玄関扉の取り替えが行われてる。
わたくしは今週の土曜日の午後の予定だったが、さっき、土曜日は混んでいるので今日できないかと業者の若人が聞きにきた。13時30分までに出来るのならオーケーであるからして、とっととやってしまいたいせっかちなわたくしとしてはありがたいことであります。作業時間は1時間。
ちきりんの本を読んでいると、伝える能力のある人は、つくづく自我の確立ができているのかなと思う。
自我も満足に確立できていないのに一足飛びに、ある集まりでは「自我の解体」を問う。自我というのを身をもって実感できていないのにどうやって解体すればいいのか、自我の弱い人というのは自分の明確な意見などはないのだろうか。じゃあ、会話も反応だけのうわべだけのくだらない会話で終わってしまうだろう。
議論なんてするのは面倒だと思うに違いない。
それこそ「あんた、めんどくさいのよ。」で終わりだ。それも言った側に格好つけられたような解ったような態度をとられて終わりだ。そういうのを思考停止というのかもしれない。だけども対話というのは、めんどくさいものなのだと思う。
そして、自我の確立ができている人は明確でかっこいいなぁと思うときも多々ある。
しっかりとした境界線、それが三次元で生きるということなのかもしれないが、そこに違う次元の隙間はある。じゃないと湧き上がって来るものをこの世で表現できないではないか。その行為がその人の感覚を鋭くさせ感性を豊かにするのだと思う。
子供はまだ、自我が確立されていない。
ピダハン族という部族はジャングルの奥地という危険地帯に暮らしながらも幸せで悩みがないのだそうだ。
命と共に同期して生きているのだろうか。
ピカソなどの芸術家は晩年、また子供のような無邪気さで創作する。ああ、自我を確立して、そして自然に解体されたのかもしれないと思ったりする。ピカソの自由自在さにこそ遊びを感じるのである。じゃあ、ピダハン族は自我の確立をされないままのずーっと子供のような存在で生きているのだろうか。
そして、わたくしの父もそうだったが、認知症という病は、脳の細胞がゆっくりと壊れ、自我は失われていく。
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