サーンキヤ哲学から
FractalNet HD - Slow deep Mandelbrot zoom
サーンキヤ哲学というのを調べていた。
印度の聖者といわれる人たちも同じ言葉なのに表現の仕方が変わってくる。
言葉の明確な理解がないと一緒くたになってしまいそう。
「個体性が意味をなさなくなる」と言われても、その体験の無い者はなんのことやらさっぱりわからない。
それは、本当に日常で役に立つのだろうか、悟りは常にやってくるし、もし覚醒したらならばそれは死でしかありえないのか。
サーンキヤ哲学は、二元論でありました。が、
それは自己(プルシャ)という傍観者的な観察者という認識によるもので、すでに確定している、証明できないはじめから在る(いたじゃん!)っていう自己があるみたいです。
その自己が自性に光を流して展開して無明となって、この世にあらわれとして流出しているのだとか、だから有から無を生む。
仏教は自己の部分を説かないから、無から有が生まれることになっているけれども。
二元論(自己と自性)だから、本当の自分(自己)は、瞑想、修行しなくても在る。
だから、結局は、有から無が生じることになる、
自己とは光を放つもの、光を放つものがないとフィルムに焼きつけることができない。
フィルムは焼きつける心(感覚器官)で、
認識手段はレンズ、
映し出す光がないと映像がとりこめない存在が自己
だから、
「わたしはいない」は、自性から流れ出たわたしであるから いなくなる ことも可能、でも確定している光を放つ自己は常にいる。
つれづれは、つづく。
サーンキヤ哲学というのを調べていた。
印度の聖者といわれる人たちも同じ言葉なのに表現の仕方が変わってくる。
言葉の明確な理解がないと一緒くたになってしまいそう。
「個体性が意味をなさなくなる」と言われても、その体験の無い者はなんのことやらさっぱりわからない。
それは、本当に日常で役に立つのだろうか、悟りは常にやってくるし、もし覚醒したらならばそれは死でしかありえないのか。
サーンキヤ哲学は、二元論でありました。が、
それは自己(プルシャ)という傍観者的な観察者という認識によるもので、すでに確定している、証明できないはじめから在る(いたじゃん!)っていう自己があるみたいです。
その自己が自性に光を流して展開して無明となって、この世にあらわれとして流出しているのだとか、だから有から無を生む。
仏教は自己の部分を説かないから、無から有が生まれることになっているけれども。
二元論(自己と自性)だから、本当の自分(自己)は、瞑想、修行しなくても在る。
だから、結局は、有から無が生じることになる、
自己とは光を放つもの、光を放つものがないとフィルムに焼きつけることができない。
フィルムは焼きつける心(感覚器官)で、
認識手段はレンズ、
映し出す光がないと映像がとりこめない存在が自己
だから、
「わたしはいない」は、自性から流れ出たわたしであるから いなくなる ことも可能、でも確定している光を放つ自己は常にいる。
つれづれは、つづく。
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