Meimay's days

I write about my daily life.

供養の件など

meimay


シャガールです。

わたくし、シャガールはそう好きではないですが、この絵はスッキリとしててライトでいいね。清々しい軽さを感じます。


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今朝、天外司朗さんのチャンネルのyoutube「日本列島祈りの旅」が上がって来たので、観ていた。


記紀(古事記、日本書紀)は大和政権側の神話で、古伝・口承史の方が史実に近いが古伝・口承史もどこか歪んでいる。というのも民族間同士の恨みが混入されているからというのはわかる。


youtubeでは、オオクニヌシとコトシロヌシは洞窟に幽閉されて殺されているので、その洞窟で供養をすることとなる。供養中、巫女にコトシロヌシが憑依して、とんでもない踊りになってしまったのだそうだ。


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つまりは、出雲族を大和族が迫害して、出雲族は大和族に対する恨み辛みがあるわけです。

なので供養は必須、ところが、出雲族の供養は許さないという第三の存在(霊的)である先住民が出雲族が渡来する以前にいたことが発覚する。


図式としては、出雲族は先住民族を迫害して出雲王朝を築いたが、その出雲族を大和族が迫害するという連鎖です。


ですので、出雲族の供養のまえに、先住民の供養もしなければならない。


オオクニヌシとコトシロヌシが先住民に謝罪(踊り)しなければならないので、出雲族と先住民族との一緒の踊りが始まっての供養となったわけです。



大和族が出雲族に謝罪、出雲族は先住民に謝罪で、すべて解けたかと思ったのですが、スセリ姫(秦の始皇帝のもとで神降しをしていたシャーマンで、オオクニヌシの側室に送られる)が降りて来て、わたくしも供養してくれということで、こっちも供養するというややこしい図式も登場してます。


この動画を拝聴して、わたくしも思わず拍手をしてしまいました。


供養とは歌と踊りでもあるわけです。


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恨みを供養しないと真の平和は訪れないという話で、誰の記憶にもトラウマはあるわけで、それが浮上して来たなら真の意味で供養は大事なのかもしれません。

だけども、結局、その恨み辛みも個人のストーリーで、勝手な視点の因果関係を作り上げているということなら、因果関係は実は無いともいえるのだろうと思われます。


しかしながら、誰しもが、ストーリーの中の主人公に成り切っているので、自分が正しいとさえ思っているわけです。


そこでどう供養をするのか・・・古代では、結界を張る人、封印する人などもいたわけです。現代でもいるとは思うが、結界や封印、祓いは、一時的な整える姿勢としては、まあ、いいでしょうが、根本的な解決には至らないわけで、やはり供養(祈り)なのかもしれません。


ですが、自分にいまだに恨み辛みがあると、結局は祈ってもその感情と共振してしまうので供養にはならないということです。

裏では恨み辛みや批判精神がいっぱいなのに、表ではいい人っぽいというのは、誰もが裏の顔と表の顔があるのでそうなのだとは思うのです。


自分で自分を供養する。

これができるようになるのでしょうか。



供養というと仏教的ですし、釈迦は歌や踊りは禁止してます。

あくまでも小乗仏教は、自分を整えることがまず先決なので、そこを解いているのだと思われます。

小乗仏教で己を整えることで、大乗仏教の教えは必要ないのかもしれないが、他者が存在する限りそれはあり得ないとしたら、音としての声の歌と身体を使っての舞踊的なものは、他者と繋がるまたは宇宙と繋がる手段としてはより良い近道なのかもしれないと思ったね。