Meimay's days

I write about my daily life.

鬼は同時に神でもあった。

meimay

思えば、池井戸潤氏のドラマや映画のような人間関係は大企業じゃなくても家族や親戚、ちょっとした趣味の集まり、小規模の会社、アルバイト先、パート先などなどでも繰り広げられる。

内部告発は程度の低い幼稚な悪口や仲間外れだったり、目障りな人は無視とか、勝手な話を自分の都合のいいようにでっち上げた嘘とか、それをさも鬼の首を取ったように皆のまえで披露するとか、まともな会話さえ成り立たないシーンは多々ある。常に表面的な会話だけで終わらせようとする緩い平和とか、保守的ないい人ぶりっ子、内容はともかくとりあえずは多数派(長いものには巻かれろ)についておくとか、いいとかわるいとかではなく、言葉を外しても心や意識という霊的なエネルギー(といっていいのか)次元での影響が出て来たりもする。

それが顕著にあらわれてくる時代が風の時代だとしたら、内観と心の浄化は必須だと思われます。じゃないと己の心がドロドロだとそれが目のまえに顕れてくるということでしょうか。

 

昨日、自転車に乗っててふと妄想していた。

自分しかいないのなら、自分ワールドがいくつもあって、5次元の自分ワールドにいる自分が、3次元から5次元にいる自分のハイアーセルフと繋がってチャネルするということも有りか。じゃあ、3次元にいながらにして、10次元にいる自分のハイアーセルフとも繋がれるということなのだろうか。だけど、日々暮らしていて、自分の意識がすでに5次元のハイアーセルフになってしまっているということも有りなのだろうか。そいういう場合、チャネリングは必要なくなる。

自分ではない次元のものとチャネルしている場合は、霊導とか憑依というのだろうか。またはイタコとか。

 

 

昨夜、関裕二氏の文庫本を開いて、ああ、そうだった「モノ」とは古来、鬼と言われてもいたと新ためて思うのであります。

 

古代最大の豪族である物部氏は、天皇家が登場するまえからヤマトにいて大王家であった。衰退後、物部氏は鬼として、神(天皇)とは対局の存在となった。鬼となった物部氏は裏として天皇家と接近することになっていくことになる。

 

奈良県は三輪にある大神神社の祭神は大物主(ヘビ、雷)、近くにある檜原神社は皇祖神である天照大神を祀っているが、この神社は思えば摂社なのに神殿がない。あの辺りは古代から出雲と深い関わりがある。

天皇家にとって出雲神は、まつろわぬ鬼とみなされていた(鬼と読まれるようになったのは平安朝以降で、それまではオニは、「モノ、シコ」といい習われていた)。神話でも天津神に征服された出雲神が鬼となるのは矛盾しない。崇神天皇が出雲神の祟りに脅え、皇祖神である天照大神よりも出雲大神を重視したのは鬼の祟りを鎮めるためであったと思われます。

 

鬼の本来のよび名は「モノ」である。

 

モノは物なのであるが、なぜ物(物質)が鬼なのかは、現代の感覚ではすでに失われていると言っていい。

もののけ、妖怪と言い換えれば、モノは物質であると同時に、非物質である要素も含んでくる。つまりはモノは物質であると同時に霊的作用も含めたこの世に現象として顕れてくるモノをさしている。

ここのところを古代人は八百万(アミニズム)として、自然の中に、そして言葉の中にも言霊として神をみだしていた。反面、自然の驚異は鬼としての性質も持ち合わせる。神と鬼は背中合わせであり畏怖と畏敬の念をいだきづつけるための祈りの存在でもあった。

 

鬼(天皇)が神(出雲)を征伐し、神(天皇)が鬼(出雲)を祀る。この両面性はアミニズム的にいえば、鬼は同時に神でもあったことになる。

 

つづく。