アジールが聞こえる。

ベランダにあるブーゲンビリアの花がハラハラと落ちている。
花は落ちても朽ちてはいないので受け皿に盛ったりしています。

タケビンが机の上のブーゲンビリアの花で遊んでいる。
関裕二氏の文庫本を再読してます。
古代、鬼は同時に神でもあった。表裏一体の関係。
鬼の一族の末裔は、社会の最下層に位置しながらも一方で神仏に仕え神聖な役割を担ってきたのは、彼らが神に近い存在だったからで、天皇は鬼退治をしながらも裏では鬼と強い絆で結ばれていたようです。
網野善彦氏の本を何冊か読んだことがあります。
「無縁」の人々とは、俗世間、権力から縁を切られたり、また自ら切った人々であり、支配システムの最下層に位置したがゆえに、だからこそ自由な活動ができた人々でもあった(律令制度)わけです。
通行の自由
税や諸役の免除
私的隷属からの解放
土地に定着せず、私有を知らず、私的隷属を嫌った芸能の民、物乞い、遊女、非農耕民などの律令制度という枠にとらわれることのない人たち(無縁の原理(所有と支配の原理に対抗))、彼らは天皇家との強い関係を維持していた。被支配者でありシステムの最下層に位置する無縁の人々は、なぜ頂点にある天皇と直接つながっていたのか。その理由は天皇も律令の枠からはずされた特別の存在であったことと関連性がある。
表と裏。
無縁の原理の裏側の社会で、彼らは独自の闇の世界を構築していたというのであります。神の背後には無縁の人々という鬼、闇の勢力が控えていた。
アジール という一種の聖域のような場所に憧れる。
江戸時代の縁切寺などもそうだったのだろう。有縁の世界から逃れてきた無縁の人たちの場所というのは、またそこで無縁同士の縁が生じたのだと思うと、これまたそこからも逃れたいと思う人はいたと思うのではありますがね。
大阪の四天王寺などはまさしくアジール的な場所だったのだと思う。避難所。
現代の概念から外れたアジール的な場所などあるのだろうか。アーティスト、職人、芸事(芸者、舞妓)・・・現代のアジールって、大阪なら西成区あの場所周辺になるのだろうか。
自分の居場所を思うとき、それはときたま訪れるギフトのようなものかもしれないと思う。
わたくしの場合、それしかない。
地域の町内の夏まつりが明日から二日間行われる。夕方になるとまつりの練習の音が遠くから聞こえて来るのであります。その音に耳をすます。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。