自己はいるといない。
今日、二回目のUP。
今日はどこへも行かないので午後からいろいろとね。
物にも意識はある。
光から意識(波)と物質(粒子)に分かれる。だけど、それは光からなのだから物質にも意識がある。
光は同時に意識。
それを観ている自己(認識の主体(アートマン))がいる。それは闇。見られることも知られることもないけれど、それなしには見ることも知ることもない。
仏教はその自己はないけど、認識される対象世界はある。ので、わたしはいないとなる。10人いてもいつも9人しかいない(自己を数え忘れている)。ああ、無常。
哲学は世界外存在(ハイデガー)である自己を世界内存在である心身に位置付づようとしているので解決されない。
デカルトの哲学には意識(心)と物質しかない。あるとしたら意識(心)の中に、わたしがあるが物質とは分離している。二元論。
だけど、この二元論。
インドの二元論哲学だと、自己(アートマン)というのは意識を超えてしまっている。インドでは何千年もまえからそれはあたりまえであり議論の問題にさえされていない。
マハリシは自己しか存在しないと説いている。自己なしにはそこに(スクリーン(時空))、世界はない。が、これだとまたよくわかない。
インド哲学は自己(認識の主体(アートマン))を認めているが、仏教にはそんな自己はいない。
続くかも。
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